今回はフィンランドを舞台にした片桐はいりさんの処女作『私のマトカ』(2006年/幻冬舎)をチョイスしました。読書を通じて旅するメリットは、自分が行けない場所へも気軽に飛べる点。
寒さに弱く、まだ一度も北欧へ足を踏み入れたことのない私は、はいりさんの文章を通してフィンランドを疑似体験してみたいと思います。
予備知識なしでフィンランドへ
2005年8~9月、映画『かもめ食堂』の撮影でフィンランドに赴いた片桐はいりさん。普段は旅行前にみっちり下調べするという彼女が、この時は予備知識ゼロで現地へ乗り込みます。
ヘルシンキ行きのフィンエアーで提供されたプッラ(シナモンロール)にのっけから感動。それを見たCAさんが、今度はサルミアッキを持ってきます。
他国から世界1まずい飴と不名誉な称号が与えられているこのフィンランド名物と初対面にしたはいりさんは、「想像を絶していた。(中略)あまりのことに、口に入れたものを吐き出すべきか、飲み込むべきかを判断する能力さえもなくしていた」と率直な感想を述べたうえで、こう続けます。
あまりに得体の知れないものに出会うと、喜びすら湧きあがる。狭く思えた地球が果てしなく広く感じられる。この世にはまだわたしが知らない味がある! そう思ったら、なにやら胸がときめいた。
滞在中はサルミアッキ克服の修行と表し、アイスクリームやお酒など、さまざまな形状のサルミアッキ味にトライ。第一印象が最悪だったにもかかわらず、何度も前のめりで食していく姿に感服しました。
地元の方にご当地料理を勧められた際、それが仮に自分の口には合わなかった場合でも、嫌な表情を一切見せずにいただくのって、けっこう大事じゃないですか。
旅慣れた人ほど躊躇なく何でも食べますし、結果、そういう振る舞いがもっとも手っ取り早くローカルと打ち解ける方法じゃないかと思っています。
頭では理解しているんですよ。でも、怪しげな食材や苦手な味に遭遇すると、つい顔を歪めてしまう私は、本著のサルミアッキのくだりを読んで少し反省しました。
見知らぬ街と仲良くなる
著者の好奇心は食のみに留まりません。「この乗り物をうまく乗りこなせば、きっとこの街と仲良くなれる」と目をつけたトラムに、到着した翌日、さっそく乗車。
トラムの利用方法や行き先がわからず戸惑う様子を読んでいたら、見知らぬ土地で公共交通機関に乗る昂揚感と緊張感が鮮明に蘇ってきました。
フィンランドでは、ほとんどの場所でクレジットカードが使える。(中略)ただ、わたしのようにトラムに乗ったり、市場で買い物したりしたがる人種には小銭が必要だった。私の快楽は、むしろ小銭で用が足りる。
果たして、帰国する頃には路線図なしでもトラムを乗りこなすまでのレヴェルに達した彼女は、撮影の合間を縫い、劇場や湖畔でのコンサート、クラブに飲み屋にマッサージと、ヘルシンキの街を精力的に徘徊します。
映画の現地スタッフが「テリブルな場所」と語っていたイスケルマ(※フィンランドの歌謡曲)の流れるカラオケ・バーへ足を運んだシーンでは、「前川清を歌いたかった」と悔しがる始末。場の空気に馴染みまくりです。
また、クランクアップ後もトゥルクでファームステイしたり、タンペレのムーミン・ミュージアムを訪問したり、数日間フィンランドに居残り、この国を満喫していくのでした。
帰国後の余韻
私が本著のなかで一番好きな箇所は帰国した後。「遠い国から帰っていちばんに吸う空気は、寝不足の朝の目覚ましの音みたいにいまいましい」とか、「トランクを開けると荷物はひんやり冷たくて、向こうで使っていた洗剤の濃いめの香料の匂いが、もわんと立ちのぼった」とか、「そうそう!」「あるある!」の連続でした。
先述したトラムのエピソード然り、華やかな世界で生きる名女優にこれほどまで親近感や共感を覚えるとは、ちょっと不思議な感じがします。
日本に戻ってすぐ出版社から書籍化の打診があり、そこから3か月間、原稿用紙の上でも旅を続けたはいりさんは、この仕事を引き受けるに至った理由を以下のように綴られていました。
「ありえません」といったん尻込みしたものの、なぜだろう、気がついたら一冊分もの駄文を書き連ねていた。菊池女史(※編集担当者)の巧妙な誘導のおかげもあるが、わたしはたぶんあの当初、ひょんなことから乗ってしまったこの臨時列車から、まだ降りたくないような気分だったのかもしれない。せめて紙の上だけでも旅を続けていたかったのだ。
はいりさんと自分を並べて語るなんて本当におこがましいですが、紙の上だけでも旅を続けていたい感覚は、私もブログを続けるにあたりたびたび味わっています。
私は旅先でブログをアップするのがあまり好きじゃありません。何度か試みるも、家に戻ってから大幅にリライトしています。
もちろん、旅行中ははひたすら遊び倒したいって気持ちもありつつ、自宅に戻ってブログ用のメモや写真を見返していると、もう一度、その土地を訪れている気になれるんですよね。
そうした帰国後に抱く感情も込みで、私にとって『私のマトカ』は始まりから終わりまで、旅で得られるドキドキとワクワクが詰まった作品でした。ちなみに、表題にあるマトカとはフィンランド語で旅の意味。タイトルまで完璧です。
※記事内の画像はフリー素材を使用しています。本著とは直接関係ありません。
【追記】『私のマトカ』の翌年に出版された『グアテマラの弟』の感想文もこちらのページにアップしています。お時間があればぜひ。『私のマトカ』に負けず劣らず、2作目も素晴らしいです。
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