前回の『未来国家ブータン』に引き続き、高野秀行さんの作品です。今回は『世にも奇妙なマラソン大会』(2011年/本の雑誌社 ※下掲の表紙は2014年に文庫化され集英社版です)をチョイスしました。
間違う力?
私には「間違う力」があると言われる。本当にそれは「力」なのか、それとも馬鹿にされているだけなのかはよくわからない。
こんな文章で始まる本著は、サハラ砂漠を舞台にした表題作、高野さんの貞操に危機が迫る『ブルガリアの岩と薔薇』、インド再入国をめざして悪戦苦闘した『名前変更物語』、そしてアジア・アフリカで体験した7つの奇譚から成る短編エッセイ集です。
本著の前年には『間違う力 オンリーワンの10か条』(※後に『間違う力』へ改題)で人生訓をまとめている高野さん。
“第1条 他人のやらないことは無意味でもやる”とか、“第4条 他人の非常識な言い分を聞く”とか、“第6条 怪しい人にはついていく”とか、生きていくうえで著者が大事にしてきた心得を『世にも奇妙なマラソン大会』でもしっかり実践されています。
難民キャンプでマラソン大会
徹頭徹尾、高野さんの尋常ならざる間違う力が発揮された本書。1つ1つ紹介したい気持ちをグッと堪え、ここでは表題作について触れていきましょう。
寒さの凍てつく2月の晩、焼酎お湯割りを片手におもしろいネタはないかとネット徘徊。『世にも奇妙なマラソン大会』での数々の間違いは、この酒の力を借りた深夜テンションに端を発します。
数年前に腰痛から解放され、いつかマラソンを走ってみたいと考えていたのも相俟って、何気なく“アフリカ 中東 マラソン”と検索。複数の大会がヒットするなか、とりわけ高野さんの興味を引いたのが、西サハラの難民キャンプで開催されるサハラ・マラソンでした。
西サハラとはモロッコの隣にある細長い地域だ。もともとスペインの植民地だったが、西サハラの人々がポリサリオ戦線というゲリラを組織して独立のための武装闘争を開始した。スペインが撤退したら今度はモロッコ軍が占領してしまい、ポリサリオ戦線は以後、敵をモロッコとして戦いつづけた。“砂漠の戦争”として一時期有名になったこともある。
最近ではめっきり噂も聴こえてこない。たしか戦闘はもう行われていないはずだが、どうなったのであろうか……という状況だ。
そう説明すると、トルコやイラクの「クルド」とか、ミャンマー(ビルマ)の「カレン」といった世界に数多ある「見込みのない民族独立運動のひとつ」と思うかもしれない。だが、西サハラは違う。世界のかなりの国から承認を受けているのだ。
難民支援や独立支援の1つであり、難民キャンプ兼ゲリラの拠点で行われるサハラ・マラソンの存在を知って興奮を抑えられなくなった高野さんは、すぐさま主催者にコンタクト。ちなみに、メールを送ったのが2月4日で、大会の開催日は2月22日です。
翌朝、勢い余って連絡してしまった昨晩の自分を悔やみつつ、そうは言ってもすでに申し込み期間は過ぎているだろうと高を括っていた矢先、大会関係者からあっさり参加OKの返信が届きます。
当時、高野さんは4か月前から週に1~2回、8km程度ジョギングしていただけの初心者ランナーでした。直近で走った最長距離は15km。それもジョギング中に鍵を落として探しに戻った、言わば予期せぬハプニングです。
この日は雪だったので、次の日からジョギングを再開したのだが、これがまたショッキングだった。試しに久しぶりに十キロ走ってみたら、途中から両膝の外側が猛烈に痛くなり、歩いてしまったのだ。しかもジョギングが終わったあとも痛みが引かず、その日もその次の日も、ふつうに歩くのさえ辛かった。
どう考えても辞退するのが得策。けれども、当人は辞退なんぞ1mmも頭にありません。そもそも2週間少々真冬の東京で走り込んだとて、本番の地は灼熱のサハラ砂漠ですよ。無謀すぎます。果たして、準備不足のまま現地入りするのでした。
間違いを重ねた先に……
高野さんはサハラ・マラソンへ出場するにあたり、初心者1人じゃ不安だからと、旧知のTVディレクターとカメラマンを誘います。しかし、「みじめな結果になる可能性が高いのに、よりによってその姿を映像に収めるのか?」と後悔。
また、大会2日前に5km・10km・ハーフマラソン・フルマラソンのいずれかを選べるにもかかわらず(※環境が特殊ゆえ、現地に行ってからコースを決めるようです)、なぜかフルマラソンにエントリー。次々と間違いを上塗りしていきます。
レースの結果は伏せておきますが(※未読の方はぜひ実際に読んでみてください)、ランナー目線じゃなく、本職のノンフィクション作家目線で書かれた難民キャンプの様子や西サハラの実態も『世にも奇妙なマラソン大会』の大きな見どころ。
変則的ではあるものの、町をざっと見れば特に違和感はない。だいたい、ここを何の先入観もなく見て「難民キャンプ」とわかる人はいないだろう。どう見てもふつうの「町」にしか見えない。それもかなり活気のある大きな町だ。
いっぽうで、「なんて乾燥した土地だろう」とも驚く。アカシアの木の一本も、いやそれどころか雑草の一本も生えていない。一面、砂と砂利である。一年に雨が降るのは二、三回というだけのことはある(中略)。
やはり、ここは人の住む環境ではない。無理やり砂漠の中に人を住まわせているだけなのだ。
政府支給により水・ガス・電気が使え、ケータイ普及率も高く、生活はさほど悪くなさそうです。敵国モロッコへの出稼ぎが普通に行われているのも意外でした。
意外というか、正直に白状すると、本書を読むまで西サハラの問題をまったく認識しておらず、モロッコがイスラエルを模して軍事境界線に砂の壁を立て、ポリサリオ側に地雷を敷設したことも、1991年の停戦以来、大きな進展もなく、実質的に放置されていることも知りませんでした。西サハラ問題を知れたのは、すべて高野さんの盛大な間違いのおかげです。
考えるきっかけ
久しぶりに再読したのを機に「最近はどうなっているんだろう?」と西サハラの近況もサクッと調べてみました。
それこそ、2021年にコロナ・ウィルスの感染拡大を受け、スペイン政府がポリサリオ戦線に医療提供したニュース。
サハラ・マラソンの参加者はスペイン人が多いらしく、『世にも奇妙なマラソン大会』の作中ではそのうちの1人がこう語っています。
「スペインは西サハラを植民地にしていたのだから、当然責任があるのに政府は何もしない。だから市民がその代わりにいろいろやっているんだ」
これを読んでいたため、「なぜスペインが医療提供?」とはならず、「長年に渡る市民の皆さんのボランティア活動が政府を動かしたのかな?」と、私なりにちょっぴりニュースを深読みできました。
ついでに、自分とは遠い問題に思えた西サハラの独立運動も、実は無関係じゃないのだと考えを改めている最中です。
もともと西サハラを熱心に支援していたのはアフリカ諸国や中南米諸国の反米国家。2020年には、イスラエルと国交正常化したモロッコへの見返りとして、アメリカが西サハラに対するモロッコの主権を認めています。
となると、日本政府が西サハラを国家承認するのはますます困難。アメリカに逆らえない日本の御上は見て見ぬふりするしかありません。でも、市民レヴェルで意識を向けていけば何かが変わるかも。
残念ながらスペイン政府はコロナ支援した翌年にモロッコ支持を表明したものの、それに対して国民の間では批判の声が噴出。
日本もスペインも外交的にいろいろな事情があるとは思います。だけど、おそらく一般市民の大多数は、西サハラの領有問題でもっとも割を食っている難民に心を寄せ、彼らの解放を願っているはずで、そういう1つ1つの真っ当な声が世界を良くしていくと、私は信じたいです。
とにもかくにも、高野さんの間違う力は、巡り巡って私に考えるきっかけを与えてくれました。
先述した自己啓発本『間違う力 オンリーワンの10か条』の改題版の帯には、デカデカと「間違い転じて福となす」とのキャッチコピーが掲げられています。確かに間違う力って物凄く大事っぽいですね。
※記事内の画像はフリー素材を使用しています。本著とは直接関係ありません。
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