FAR-OUT ~日本脱出できるかな?~

旅のこととか、旅に関する本のこととか。

宮田珠己『ときどき意味もなくずんずん歩く』|読書旅vol.102

こちらのページで書いた通り母の手術をきっかけに生活が一変。隣でリハビリの応援をしたり(※応援するだけで、実際は何の役にも立っていない)、他愛のない会話をして退屈しのぎの相手になったりする毎日を送っています。

母と過ごす時間は穏やかそのもの。不満もストレスもさほどありません。ただし、そうは言っても「旅に出たいな~」とか、「母にかまけて働かないのはよろしくないぞ」とか、あれこれ思わなくもないです。

ましてや、日常生活もままならないくらいの大怪我を負ってしまった母の身になってこの先の未来を想像すると、流石に胸が苦しくなります。

そうした状況下でうっかりネガティヴ・モードに突入しないよう、最近は宮田珠己さんの作品をよく読み返していました。ゲラゲラ笑って気分転換。何度読んでもフレッシュな気持ちで向き合え、毎回腹がよじれます。

 

これって何の本だっけ?

前置きが長くなりました。前回の『ジェットコースターにもほどがある』に続き、今回も宮田さんのエッセイから『ときどき意味もなくずんずん歩く』(幻冬舎文庫)をピックアップ。

本著は2000~2003年にかけて寄稿した雑誌『旅行人』の連載をベースに、何編かを書き下ろし、2003年に同誌の出版元より『52%調子のいい旅』なるタイトルで単行本化。その4年後に文庫化されています。

原題の『52%』とは作中の52%が旅の話だったため。しかし、文庫化に合わせてさらなる加筆をしたばっかりにパーセンテージが合わなくなり改題。妙に律儀です。

宮田さん曰く「(書き足しているうちに)何の本がわからなくなってきた」という『ときどき意味もなくずんずん歩く』。その言葉に偽りなく、確かに何を読まされているのか途中でわからなくなります。

連載の締め切り間際に筆が進まない理由を計51行に渡って言い訳し、南インドでパイナップルの実り方とロバの巨根に驚いた話をサクッと付け足した『パイナップルとロバの観察』あたりは最たる例。

「旅について書くとき、とりあえず旅で起こったいろいろなハプニングを書くことが多いが、実際のところ、そういつもいつもハプニングが起こるわけではない。むしろ何も起こらない日のほうが多いのである」から始まり、旅先での1日をダラダラと紹介していく『何もしない旅の日常』も斬新なアプローチです。

 

世界各地を津々浦々

本の舞台となるのは、日本各地をはじめ、アメリカ、メキシコ、台湾、香港、インド、ヨルダン、シリア、レバノン、トルコ、オランダなどなど。

ほぼ同時期に書かれた作品のこぼれ話裏話が知れるのもファンにはたまりません。例えば『ウはウミウシのウ』(2000年)で披露したシュノーケル愛はどういう経緯で芽生えたのか。

20代前半のサラリーマン時代に、宮田さんは新たな趣味を模索。自分には野性味が足りないと考え、数々のアウトドア・アクティヴィティーに挑戦します。

けれども、カヌーを始めてはボディーに穴が開き、マウンテンバイクに乗っては車に突っ込みかけて転倒、沢登に行ったら行ったで大雨による増水……と、命の危険を感じてあっさり挫折。いろいろ試した末、全力を振り絞ってプカプカ浮いているシュノーケリングに辿り着いたそうです。

シュノーケリングが野性的か否かはさておき、要約しても本著のおもしろさは伝わらず、かなりどうでもいい、「だから何?」といった白けた空気になってしまうのが歯痒いところ(※かなりどうでもいい内容なのは事実ですが、本当におもしろいんですよ)。

 

それでも感銘を受けていた?

そんな『ときどき意味もなくずんずん歩く』のとある箇所に、私は付箋を貼り、蛍光ペンで線を引いていました。お~、意外に感銘を受けているじゃないですか(※再読するまで線を引いたことすら忘れていた旨は、文字を小さくしてこっそり白状しておきます)。

それは海外旅行慣れした宮田さんが現地の言葉を覚えないエピソードで構成された『覚えられない』の一節。

覚えたとて咄嗟に出てこないし、迂闊に「これはいくらですか?」と現地語で訊いても現地語で返されて終了する……みたいな話です。とはいえ、地元の言語をまったく使わないのも相手に失礼。そこで1つ例外を設けています。

ただひとこと「ありがとう」だけは現地語で覚える。細かいことはいい。感謝の気持ちだけはともかく伝える。

仮に、謝るべきときでも、たとえばバスの中で誰かの足を踏んでしまったときも「ありがとう」だ。ちっとも謝っていない。もちろん「ごめんなさい」を知っているに越したことはないし知っていれば使うが、知らない場合がほとんどだから、そういうときは「ありがとう」でいく。

足を踏まれたと思ったら、外国人に申し訳なさそうな顔で、「ありがとう」と言われる。さぞ腰が砕けるだろう。腰は砕けるけれども、顔の表情と、使いまちがえた「ありがとう」という優しい語感から、申し訳ない気持ちは伝わってくるのである。結果的に全然まちがえているが、少なくともこいつは謝ろうとしている。その意思やよし。現地語に堪能な現地人はきっとそう思ってくれると信じたい。

言葉なんて単なるコミュニケーション・ツールにすぎず、相手に真意が伝わればひとまずOK――かつてそれなりに必死で語学勉強に取り組んでいた私は、宮田さんの考えに感動し、この箇所に線を引いたのだと思われます。

そして、都合よく受け取ったのでしょう。結局、何年経っても外国語スキルは上達せず、現在に至ります。とんでもない部分に影響されてしまいました。

 

もうどうでもいいや

文庫本の解説は、宮田さんと縁の深い高野秀行さんが担当。高野さんの解説がめちゃくちゃ良くて、これを見た全宮田珠己好きが「そうそう!」と共感したはずです。

タマキングの本はあまりに笑えて、あまりにくだらなので、日本の憲法改正問題も、私の今日中に原稿を二十枚書かないとたいへんなことになるという問題も、すべてが「もうどうでもいいや」という気分になる(中略)。

私は仕事に行き詰まると、よく寝そべってタマキングの本を開く。いいネタがあればあるほど、肩に力が入り、文章が堅苦しくなる。そういうとき、タマキングを読む。すると、「ぎゃははは」と身も蓋もない馬鹿笑いをしたあと、心身ともに脱力して筆がすらすら進んだりするのである。ときには、脱力しすぎてそのまま深い眠りに落ちることもあるが、それはそれでよしとしている。

『ときどき意味もなくずんずん歩く』を読むと、大概の場合はもうどうでもいいやってなれると思います。

社会のなかでそこはかとない行き場のなさを感じている時や、将来への漠然とした不安が拭い去れない時、些細な出来事が発端でイライラを抑えられなくなった時は、ぜひ手に取ってみてください。きっと前向きに開き直れますよ。

※記事内の画像はフリー素材を使用しています。本著とは直接関係ありません。

www.gentosha.co.jp

 

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