駐留米軍の撤退を受けてアフガニスタンの政権が崩壊し、タリバンが瞬く間に全権を掌握した今年8月。TVで首都カーブルの様子を見たり、タリバンの女性蔑視思想にまつわる解説を聞いたりする日々の中、ふと『神の棄てた裸体―イスラームの夜を歩く』(2007年/新潮社)のことを思い出しました。久々に読み返してみても、やっぱりドえらい1冊です。
ノンフィクション作家・石井光太さんの本は、2010年作『レンタルチャイルド―神に弄ばれる貧しき子供たち』然り、2011年作『遺体――震災、津波の果てに』然り、自分の頭で考えるきっかけを与えてくれるものばかり。正直ページをめくるのがしんどくなる時も多々ありつつ、安逸をむさぼるヌルヌルの私こそ、こういう書物をもっと積極的に読むべきだと感じています。
神から捨てられた人々
そんな石井作品との出会いの本でもある『神の棄てた裸体』。私は2010年の文庫化タイミングで手に取りました。裏表紙のあらすじを読まずに文庫本を買いがちな私は、イスラム諸国の性産業を題材にした本だと思っていたんですよね。もっと言うと、表向きNGとされているイスラム圏の風俗はテクニックがイマイチ……みたいな声を耳にしていたので、その手の体験レポなのかなと。
ところがどっこい。西アジア/南アジアの性や売春をテーマに扱っているものの、想像していたような軽い内容ではあらず。副題のピンク文字に騙されました。
例えば、宗教上の戒律が厳しいパキスタン北部のとある地域では、女性は自由に街を出歩けず、知らない男性に声を掛けるのもご法度。一方、見知らぬ男性同士が会話をしていても咎められません。それを逆手に取って、欲望を持て余した大人は男の子を買うようになり、アフガニスタン難民の幼い男娼がどんどん増えていった……などなど。
婚前交渉を禁止し、長い間、女性は子どもを産むために存在していると考えられてきたイスラム圏。地方へ行くほどこの風習/考え方は根深く残っていて、奨励金のために避妊手術を受けた、あるいは他教徒やテロリストに強姦されて村にいられなくなった人々が、都市部で体を売っている様子も詳細に紹介されています。
また、同性愛者が極刑に処されるアフガニスタンで、その容疑を向けられた男性が恋人の情報を国に流し(≒恋人を見殺しにして)、難を逃れたエピソードも強烈。地元を離れて路上生活を続けるも、身バレして新しいコミュニティーでも鼻つまみにされ、それでも「死ぬのが怖かった。生きたかったんだ」と叫ぶ彼に対し、胸がズキズキしました。卑怯者? 生き恥を曝してカッコ悪い? 確かにそうかもしれません。だけど、死ぬのが怖くて生き続けたいと願うのは、私もまったく同じです。
本書に登場するのは、神を棄てた人ではなく神から棄てられた人。戒律を遵守して平穏な毎日を送りたくても、それが叶わなかった人々の物語です。
愛に飢えたバングラデシュの浮浪児
批判を承知の上であえて書くと、私は風俗全般をわりと肯定しています。反社会勢力に資金が流れるのは大問題ですが、それはさておいて、需要があり、労働者にも真っ当な賃金が払われているなら、十分に立派なサービス産業なんじゃないかというのが私の意見。
とはいえ、児童買春は言語道断。子どもを守るべき立場の大人が、自分の性欲を満たしたいがために子どもを傷つけるとは……想像しただけで震えるほど怒りと嫌悪感を覚えます。世界から永久になくなってほしいと願ってきましたし、いまもその気持ちは変わりません。
だから、ダッカで暮らす浮浪児の言葉には何とも言えない感情が湧きました。1日に何人もの客を取る彼らや彼女らは、時に変態的なプレイも強要され、その痛みを忘れるために客やパパ(元締め)からドラッグをもらうそうです。
そうした状況にもかかわらず、当事者たちは「大人とのセックスが好き」と語っている現実。ことが済んだ後にギュッと抱きしめてもらえるのが嬉しいのだとか。物心ついた頃から両親のいなかった子どもたちは愛情に飢え、いくら相手がサディストや小児性愛者であったとしても、かまってもらえることに喜びを感じている――皆さんはこれをどう受け止めますか?
私は、お金のために仕方なく体を売っていると決めつけていました。そうじゃなきゃ納得できないし、行為そのものを好きだと言っている子がいるなんて、考えたことすらありませんでした。
どんなに愛のかたちが歪んでいようが、浮浪児たちにとって自分を必要としてくれる大人はきっとかけがえのない存在。客はともかく、元締めの多くは浮浪児たちと同じ境遇で育ち、同じようにして大人から小銭の稼ぎ方を学び、食事の世話を受けてきました。身寄りがなく、社会からも見放された浮浪者のコミュティーは、もしかすると家族みたいな集合体で、パパはパパなりのやり方で〈家族〉を守っているのかもしれません。
仮に保障や援助もないまま取り締まりが強化され、バングラデシュでこの種の商売ができなくなれば、子どもたちは食い扶持がなくなり、頼りにできる数少ない大人たちをも失ってしまうわけですよね。
もちろん〈だったらしょうがない〉とは到底思えないにしても、〈必要悪ってあるんだな〉と感じ、〈固定観念に縛られていたのでは何も解決できないんじゃないか?〉と疑問を抱き、そこから先は思考が堂々巡り。勧善懲悪の単純な筋書きは成立せず、非常に歯痒いです。
一夫多妻制ってどうなの?
もう1つ本書で固定観念を覆されたのが一夫多妻制について。女性側のメリットはあるのか、流石に男の身勝手がすぎやしないか……と、『神の棄てた裸体』を読むまでは理解に苦しむ婚姻形態でした。
でも、クルド人男性は一夫多妻制を助け合いだと説明します。女性を養うことがイスラム男性の義務とされる中、長引く争いで男性の数は激減し、集落の男女比は1:5かそれ以上。1人の男性が複数の女性を妻に迎えない限り、多くの女性が行き場を失ってしまいます。
経済的に無理をしてでも独り身の女性がいれば娶る。地雷被害で障がいを抱える女性であっても、それは変わりません。実際、一夫多妻制のおかげでどうにかいまの世代まで命を繋げられた集落がたくさんあるはずです。
「婚姻を関係は結ばずに、援助だけをする方法もあるのでは?」といった著者からの質問に対し、「そんなのは無責任すぎる」ときっぱり回答する場面も印象的。外側の人間が〈女性の権利を無視した一夫多妻制なんどけしからん!〉と否定するのは、何だか物凄く短絡的で身勝手で不誠実な気がしました。
もっとも、人口の多い都市部ではあまり必要のない制度にも思えます。男女比が離れていないのに1人の男性が複数の女性を嫁にもらうと、今度は男性があぶれてしまいますしね。
でも、ダイバーシティーだ、何だと騒がれている時代に、欧米的(≒キリスト教的)価値観でよその文化圏の婚姻制度を全否定するのは変な話で、まずは制度の本質を知ろうとする作業から始めないと。昨年末に発表されたマクロン大統領の施策だって、テロ撲滅を名目にしたイスラムいじめと受け取れなくもないです。
こうやってあれこれ考える癖が身に付いたのは、たぶんこの本の影響。一夫多妻制のみならず、ロヒンギャ問題なども同じくです。私が思いを巡らせたところで、世界がどうにかなるものじゃありません。だとしても考えることは止めたくない。地球上で起こっているさまざまなニュースに対して意識的でありたいし、物事を善悪の二元論で判断しちゃダメだとより強く感じるようになりました。
とにもかくにも、『神の棄てた裸体』はぜひ多くの方に読んでいただきたい作品です。当時20代だった著者がその土地の人々と暮らし、働き、同じ飯を食べながら書き上げた、テレビでは報道されないもう1つのイスラムの真実。震えます。
※記事内の画像はフリー素材を使用しています。本著と直接関係はありません。
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