FAR-OUT ~日本脱出できるかな?~

旅のこととか、旅に関する本のこととか。

関野吉晴『グレートジャーニー 人類5万キロの旅1 嵐の大地パタゴニアからチチカカ湖へ』|読書旅vol.99

前回ご紹介した『世界一周デート 魅惑のヨーロッパ・北中南米編』のなかで、メキシコの山岳地帯に住む人たちとチベットの人たちの雰囲気が似ていることを肌で感じた著者の吉田友和さんは、こんなふうに述べられていました。

我々モンゴロイドの祖先は、西はチベットの果て、東はアリューシャン列島を越え、アメリカ大陸を渡り、メキシコの山奥まで来ているのだ。そのグレートジャーニーにつくづく頭が下がる。モンゴロイドというキーワードで、世界はどこかで繋がっている。

グレートジャーニー、あまりのスケール感に想像するだけで頭がくらくらします。そこで思い出したのがこの一冊。

今回は、1999年に植村直己賞冒険賞を受賞されている探検家であり、人類学者や外科医でもある関野吉晴さんの『グレートジャーニー 人類5万キロの旅1 嵐の大地パタゴニアからチチカカ湖』(角川文庫)を取り上げたいと思います。

 

グレートジャーニーとは?

『グレートジャーニー 人類5万キロの旅』シリーズは、1995年から2004年の間に小峰書店より刊行された全15作を、角川が5冊の文庫本に再編したもの。

角川版の第1弾である本書は1995年作『嵐の大地パタゴニア』、同年作『チチカカ湖めざして』、1996年作『はるかインカを訪ねて』がベースになっています。

説明するまでもなく、グレートジャーニーとは人類が700万年の歳月をかけて世界中に拡散していった5万キロの旅路を指す名称。

アフリカ大陸で生まれたとされる猿人が、ユーラシア大陸を経てベーリング海峡を渡り、アラスカからパタゴニアに至るまでの旅を、イギリス人考古学者のブライアンM・フェイガンがこう名付けました。

関野さんはこの道のりを徒歩と自転車とスキーとカヌーで、要するに祖先に倣って、みずからの脚力腕力を頼りに辿ろうと決心(※太古の人も動物に乗って移動していたので、自転車・スキー・カヌーはその代用。モーターに頼らず人力オンリーな点がミソです)。

大昔の人が旅路で感じた暑さや寒さ、肌に感じた風の感覚、土ぼこりや雨のしずく、雪のひとひら、それらを少しでも多く感じて、ゆっくりと人類の旅路を辿ってみたいと思っている。

ちなみに、アフリカ発ではなく、逆ルートを選んだのにも理由がありました。一橋大学で探検部を創設した頃より20年間も南米大陸に通い続け、日本人と同じアジア系をルーツとする原住民族と交流する過程で、“彼らは、いつ頃、どこから、どのようにして、ここまでやってきたのだろうか”と疑問に持った関野さん。

その答えを探していくうちにグレートジャーニーの話へと辿り着き、旅の出発地は発想の原点である南米大陸しかないと考えたそうです。

 

土着文化とのふれあい

こうしてトータル10年に及ぶ壮大な旅がスタート。厳しい自然環境を相手に時には重大なトラブルにも見舞われつつ、現地の人々カルチャーとふれあう様子が丁寧に綴られていきます。

例えばボリビアコカ農園での一幕。ボリビアでは古くからコカが栽培され、地元住民はコカを噛んで疲れや乾きを癒してきました。

しかし、麻薬が社会問題化しているアメリは、その風習を一切無視して、ボリビア政府に「コカの栽培をやめてくれ!」と要請。おかしくないですか?

本著に出てくる農家の方の話を読むと、ジャイアンすぎるアメリカの言動にも、大国の言いなりになってアメリカに農地を買い取ってもらう案まで出しているというボリビア政府にも、怒りを覚えずにはいられません。

取り締まるべきはコカの葉を悪用する輩(コカからコカインを精製したり、それを売ったり買ったりする人)であって、なぜ伝統的な農家の人々が苦汁を嘗めさせなければいけないのか。「本丸を落とせない無能ぶりを棚に上げて何なんですか?」といった感じです。

アメリカやボリビア政府にとやかく言える立場ではなく、日本も思いっきり加害者になっている事実を突きつけられたのが、チリのチロエ島に関するくだり。

世界でも有数のサケ捕獲高を誇るチリ。最大の輸出先は日本であり、全体量の80%前後チロエ島養殖が担っているとか。

この養殖用の機械設備によって海水の温度が上昇し、生態系が激変。魚を捕って暮らしてきた人々を生活苦に追いやっています。私たちが日常的にサケを食べている裏で、原産地が悪影響を受けていたとは……。いろいろ考えさせられました。

「輸送コストや物価の高騰でサケが値上がりして悲しい」と嘆いていた自分の身勝手さが恥ずかしいです。サケ断ちするのはなかなか難しくても、現地の実態を知り、どんなに小さくとも何かしらのアクションを起こすのはとても大事。

賞味期限の近い商品から買ったり、食べきれない場合は冷凍したりして、まずは個人レヴェルでの食品ロスをなくし、より一層、感謝の心を持っていただこうと肝に銘じました。

 

優先すべきは何か

ボリビアのコカ農家やチリの漁師の話は伝統文化の保全について意識されせられる内容でしたが、逆に近代化を望む辺境地に対してはどう捉えるのが望ましいのか。

関野さんが20年近く通う村では、訪れるたびに懐中電灯やアルミ鍋、ラジカセなどの道具が増え、それに伴い住民のライフスタイルも徐々に変化。

かつてジャングルで遊びながら自然と共に生きる知恵を身に付けてきた子どもたちは、村に学校が建って以来、遊ぶ時間が大幅に減ったと解説されています。

また、民族衣装も1つ1つ糸から手作りするより既製のシャツジャージを買ったほうがよっぽど高コスパ

そんなこんなで、代々受け継がれてきた文化が廃れていくのは、正直なところ淋しいし、もったいない気がします。グローバル化によってどの地域も景観や人々の服装が似たり寄ったりになっていくのは味気ないですし……。

けれども、文明にどっぷり浸かった部外者の私がとやかく言うの単なるはエゴアマゾン川の奥地に暮らす民族だって便利さを求めるのは然るべき流れです。

当事者が自分たちの風習を守りたいと願うにせよ、グローバル化を求めるにせよ、どちらにしても、経済的にちょっぴり優位に立つ国々は相手中心で考え、あれこれ働きかけていく必要があると改めて感じました。

 

本当の豊かさ

本著は約30年前に書かれているんですよ。それにもかかわらず、自国の都合や価値観を押し付けるやり方が、いまもほとんど改善されていない現実に違和感危機感を抱いてしまいます……なんてね。

いかん。南米を舞台にした作品だから、陽気なノリで感想文を進めていきたかったのに、思わぬ方向へ進んでしまいました。

念のためお伝えしておくと、別にコンシャスな作品ではありません。むしろ美しい自然の描写や日本と南米の文化の違いにワクワクさせられっぱなし。

最後にその一例として、4以上の数字の観念がないマチゲンガ族のエピソードを引用させていただきます。

マウア(三)の次のトゥアイニは、四ではなく、「たくさん」という意味なのだ。四以上はすべて「たくさん」ということになる。そんな調子だから、自分の年齢もわからない。カレンダーだってないのだ。

不便そうに思えるが、彼らと暮らしているうちに、数なんて必要がないことがわかった。三つくらいまでは確かに必要だが、それ以上は「たくさん」で十分なのだ。

例えば、狩りに出掛けて大型の動物に出合ったとする。ひとりでは手におえないと思ったら、「みんな来てくれ、たくさん集まってくれ」で用は足りる。五人来てくれとか、八人来てくれとかいう必要はない。

(中略)ジャングルに暮らす先住民たちは、貯めることをしない。自然についての深い知識と知恵、創意工夫によって、必要なものは自然の中からいつでも手に入れることができる。また、気温も湿度も高いので、貯めるには不向きだ。

三までしか数字がない彼らを、「劣っている」と考える人たちがいる。けれども、彼らにはその必要がないだけなのだ。

何たる豊かさ。どっちが良い/悪いと言いたいわけじゃないんです。それでも、スーパーで肉や魚の値札をちまちまチェックする自分が虚しく思えてきたのでした。

※記事内の画像はフリー素材を使用しています。本著とは直接関係ありません。

www.kadokawa.co.jp

 

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