FAR-OUT ~日本脱出できるかな?~

旅のこととか、旅に関する本のこととか。

岡本太郎『美の世界旅行』|読書旅vol.84

1年でもっとも夏が好きな私にとって、残暑の厳しい9月は誰が何と言おうとまだ夏です。数日前まではサンダルも短パンも着用していました。

しかし、カレンダーが10月に切り替わった途端、いろいろと諦めの気持ちも出てきています。やり残したことはたくさんあるけど、もう流石に夏の終わりを認めざるを得ません。

そこで、夏への未練を断ち切って気持ち良く次のシーズンを迎えるべく、秋にピッタリの一冊を選んでみました。食欲、読書、スポーツ、行楽など、さまざまな言葉が当てはまる〈○○の秋〉。なかでも真っ先に思い浮かぶのは芸術です。芸術以外に考えられません。

はい、しょーもない見栄を張りました。何なら芸術が自分から一番縁遠いと自覚しつつ、今回の主役となる岡本太郎さんの『美の世界旅行』(新潮社/1982年)は、そんな私ですらめちゃくちゃ楽しめる作品です。

 

巨匠と巡る世界

この本は1960年代半ばから1970年代後半にかけて、世界中を飛び回っていた岡本太郎さんの旅の記録書。

代表作『明日の神話』の制作のために足繁くメキシコへ通っていた頃のエピソードや、初のバロセロナ訪問でガウディの建築と念願の初対面を果たした時のエピソードもたっぷり綴られています。

始まりはインドから。一度は行きたいと思いながらも、インドに対して「恐怖に近い抵抗」があったと語る岡本太郎さん。

私にはインドは巨大な島のように思える。北はヒマラヤに断ち切られ、東も西も南も海で区切られた、沈黙する膨大な塊が目に浮かぶ。このとざされた容れものに何千年、何万年という人間の業がコンデンスされ、煮つめられてどろどろしている。濃く厚い混沌。

インドの美術とか遺跡の写真などを見ても、ひどく洗練され、艶冶ではあるが、また言いようのない圧迫感で救われない思いがするのだ。

インドを〈巨大な島のよう〉と捉える発想が、やっぱり普通じゃないです。とにもかくにも、1971年、インド政府からの招待でついに渡印が実現。まずはムンバイを拠点に古跡を巡ります。

その際、エレファンに衝撃と感動を覚えたのも束の間、アジャンタは「期待外れ。パターン化された数々の仏像にはなんのおもしろ味もない」とし、カジュラホは「お施主さんの権力には感心するが、すべての部分が揃って、安定していることの空しさ。原始的なエネルギーが感じられない」と辛口評価。

はたまた、カルカッタで一番壮麗な建物として案内されたヴィクトリア・メモリアルホールにいたっては、「がっかりした。ちょっとこんなひどいものを見たことがないと思われるほど空虚だ」と、身も蓋もありません。

〈先生、これは政府からの招待旅行ですよ。大丈夫ですか?〉と、読んでいる側が余計な心配をしてしまうくらい忖度なんぞは一切なし。

今度の旅行で、強烈にインドにふれた思いがしたのは、そういう遺跡とか自然の風物よりも、やはり人間の匂いである。

バラナシの沐浴場に集まる人の群れ、インド伝統の織物や染繍、バクシーシの風習――大事に管理されている遺跡や美術品よりも、土着の生活臭が感じられる物事から刺激を受けていく様子は、インド以外でも各地でたびたび確認できます。

 

自由でエネルギッシュな文章

岡本太郎の文章は、読んでいるとまるで彼自身の絵画作品を見ているような気分にさせられる。

上記は漫画家のヤマザキマリさんによる文庫本の解説文です。言われてみれば確かにそう。かしこまった感じや遠慮が一切なく、とことん自由エネルギッシュ

旅先で興味を惹かれるのはお決まりの枠組みから外れたものばかり。それらと対比させていくかたちで、ルネッサンスを頂点とするヨーロッパ中心の流れを事大主義と否定し、モダンアートの画一化に喝を入れていきます。

どの言葉にも嘘がないというか、物凄く生々しく、なるほど、そのあたりは岡本太郎さんが残した数々のアート作品と共通している部分かも。

しかも、即キャッチコピーに使えそうなわかりやすさインパクを備えたフレーズが要所に散りばめられ、例えば「芸術は本来、リアクションでなくアクションであるべきだ」なんて読者に直球でぶつけてくるのだから、こちらも芸術との向き合い方美の捉え方を見つめ直す他ないといった格好です。

 

すっ裸でふれあう芸術

ひらかれた場所でこそ、芸術はピープルにすっ裸でふれあうことが出来る。誰も金を払う必要もないし、何気なく通りすぎてもいい。「芸術作品」だなどと立ち止まって見る必要もない。それでいて、何かぐんとつきつけられ、無意識的に心性を変貌させる。それが芸術の呪術的役割だ。

メキシコの壁画家、ケイロス岡本太郎さんご自身の芸術観を伝える場面で飛び出したこの一節を読み、過去の記憶が鮮やかに甦ってきました。

川崎市で生まれ育った私は、これまで折に触れて市内にある岡本太郎美術館へ行っています(学校行事とかで)。

ただし、鑑賞用の特別な施設にわざわざ足を運ばなくとも、小さい頃から多摩川沿いの岡本かの子文学碑『誇り』や青山通り沿いにある『こどもの樹』の前を幾度となく車で通過し、幼心に〈これは何なんだ?〉と不思議がっていたことを、ふと思い出したのです。

ついでに、この10年の間でも、ツレの地元・相模原の商店街に鎮座する巨大な『呼ぶ赤い手・青い手』を初めて見た時は、たいそうギョッとしましたっけ。

こんな素敵な岡本太郎体験を、本書を再読するまで忘れかけていたとは。有無を言わさず見る者を圧倒する凄み。とんでもなく異物なのに、一方でその場に置かれているのが当たり前のようにも思えてくる不思議な存在感――。

冒頭に〈自分は芸術から縁遠い〉などと書いたことを猛省しています。私も気付かぬうちに芸術と触れ合っていました。

芸術は特別なものではなく、食や読書やスポーツと同じくらい暮らしの近くにあるもの。そう思って散歩中にキョロキョロあたりを見回すと、駅前のロータリーや公園の隅っこに置かれた作者不明の謎のオブジェが、妙に心に引っ掛かったりして……。

こういう諸々に気付きはじめている時点で、今年の秋は実りの多い季節になる予感しかしていません。

※記事内の画像はフリー素材を使用しています。本著とは直接関係ありません。

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